韓国文学があまりにも豊作すぎて、まだ韓国にいます。ヨイヨルです。こんばんは。
今回は晶文社の、現代の韓国若手作家の作品を紹介している全6冊のシリーズ「韓国文学のオクリモノ」から、キム・グミの短編集をご紹介。このシリーズは装丁がとってもオシャレで、あまり本を読まない人たちでも手に取りやすそうなデザイン。
きっかけはジャケ買いでも、忘れられない読書体験になるかもしれない。そんな出会いもまた一興。
私がとても信頼しているレビュアーの冬木糸一さんもこのシリーズからチョン・ミョングァン『鯨』をレビューされていて、こちらすごく面白そう!
もうひとつ、クオンという、文学をはじめとした日韓双方のカルチャー交流事業を行う会社が出版している「新しい韓国の文学シリーズ」というシリーズもジャケがかわいい。
もちろんかわいいだけではなくて、素晴らしい作品がたくさん。日本翻訳大賞を受賞した『殺人者の記憶法』もこのシリーズから出ている。私が読んだのはハン・ガン『菜食主義者』、チョン・セラン『アンダー、サンダー、テンダー』だけだが、『殺人者の記憶法』『ワンダーボーイ』も気になっている。こりゃしばらく韓国文学漬けになってしまうのもやむを得まい。
さて、この短編集、どの短編をとってもなんとなく共通しているなと感じるところがひとつあった。それは、登場人物の多くが「届きそうで届かない、何かを探している」という点だ。それはかつて、恋が始まる予感だけを残して離れ離れになってしまった女性だったり(「あまりにも真昼の恋愛」)「過ぎ去った世界」というタイトルの詩だったり(「趙衆均氏の世界」)犬だったり(「犬を待つこと」)猫だったり(「猫はどのようにして鍛えられるのか」)、放火魔だったり(「普通の時代」)。明示はされていなくても、キム・グミが描く人々は、ここにはない、ここにはいない、何か/誰かに手を伸ばしている気配があった。
「私たちがどこかの星で」で新米看護師・ソニが探しているのはがん患者が無くしたという靴だ。
ソニは孤児院を出てからソウルに上京し働いているが、ある日、孤児院の経営が厳しいので支援を頼みたい、子どもたちの面倒を見ているシスターも病気になってしまった、という手紙が彼女のもとに届く。いくら送金すればいいのか、あのとうもろこし畑はどうなっただろうか、と思いを巡らせる日々を過ごすうちに、シスターによく似た患者から靴を探してほしいと頼まれる。ソニは言われたとおり靴を探して回るが、それは見つからない。ようやくこれかもしれないという靴が見つかり、患者に履かせてみるが、足がむくんで入らず「これではない」と言われてしまう。
しまいには、患者自身が少し離れたすきに居なくなってしまう。ソニは靴を抱えたまま、患者を探して病院の屋上に上がり、ソウルの、地上の星たちを眺める。
「星も死んだり生まれたりするって」「ああ、テレビで観ました。空にあるあの星にも最期というものがあるんですって。明日にはお別れする星かもしれないってことです。そうすると僕たちがあの星を最後に見た人になるわけでしょ。運がいいですね」「運がいい?」「いいじゃないですか。どうせならよかったと思いましょうよ」
漢江にかけられた橋のライトが消灯時間に合わせて消され、彼女は明日消えてしまうかもしれない世界について考えた。それは彼女の視野を遮っていたとうもろこし畑からそう遠くない世界、慣れ親しんでいて避けては通れない、ある致命傷を負った世界だった。消えつつある世界、死にゆく世界。「私たちがどこかの星で」p.245
キム・グミの描く人々は、ひどく足場が不安定だ。左遷させられたサラリーマン、大切な犬を失って不安定になる女性、借金取りから逃れて海沿いの島に向かう親子。今日たしかにあったものが、明日はどうなるかわからない。
「いまは好きな気がするからそう言っただけ。明日はどうなるかわかりません」(…)
「好きなんだよね?」
「そう、好き」
「なのに明日はどうなるかわからないって?」
「そう」
「マジで好きなんだよね」
「そうですよ」
「明日は?」
「わかりません」
「あまりにも真昼の恋愛」p.25
私たちの生活だってそうだ。明日はどうなるかわからない。当たり前のことだ。いま、私がこの作品に惹かれたのは、度重なる天災や、せめて公正であって欲しいと思っていた分野での悲しい知らせなど「この先どうなってしまうんだろう」という不安が、自身の身近なところで目に見えて表れて来たからかもしれない。私が鈍感で周りを見られていなかったせいもあるから、勿論今までだってそうだったのだろう。明日は誰にもわからない。当たり前に存在しているように思える仕事も家族も、明日にはなくしてしまうかもしれない。それでも生活は続く。明日の仕事に向けての準備をしなくてはならない。お弁当も用意する。明日があると信じて、信じるフリをして。
ソニが探していた靴は結局見つからない。持ち主すらもどこかに居なくなってその後どうしているのかもわからない。
その手に掴もうと足掻いていた対象すら、ぼやけて視界から外れてしまうし、そもそもの存在すら疑わしいように描かれている。激しい憎しみを抱いていた対象ですら、本当に憎むべきものだったのかも曖昧になっていく。
あたたかさはなにもかもを忘れさせてくれる。厳しい寒さも侮辱感のようなものも。それから眠らせるのだ。想像していたすべてを忘れるように、足を伸ばし、頭の下で腕を組むのだ。夢も見る。家に帰る夢を。そこでは幼い娘が待っていて、ふかふかの毛布がある。運が悪かったり、うっかり気を抜いたりすると、理由のわからない大きな不幸が訪れて、それに巻き込まれてしまうこともあるのだ。
「普通の時代」p.280
キム・グミは答えを出さない。物語は曖昧なまま終わる(「肉」という作品だけ若干毛色が違うが、これも作品内では明確な「答え」は出ていない)。
先日レビューしたファン・ジョンウンの『野蛮なアリスさん』とはまた違った、世界との対峙の仕方をキム・グミはこの短編集で見せてくれた。『野蛮なアリスさん』はある意味どストレートな真っ向勝負だったのに対して、『あまりにも真昼の恋愛』で描かれている人々はそれぞれに不安を抱えながらふわふわした足取りで歩いている。人々はなにかに手を伸ばしているが、それが手に入るかどうかは分からなかったり、手に入っても結局は違和感が拭い去れなかったり、手をのばすこと自体をやめてしまったりする。
それでも人々は歩くのをやめない。どっちつかずで中途半端、ふわふわとした曖昧な状態なのかもしれなくても、そこにはある種のたくましさがある。キム・グミの描く世界は、その曖昧さを許容する優しさに包まれている。
彼女は患者を連れて移動しながら、いまだに道に迷った。葬儀場と産婦人科、リハビリテーション科、食堂の間のどこかにあるはずの目的地は、とうもろこしの粒のように歯抜けになることがあった。慌てた彼女が廊下のどこかで位置を把握しようとしていると、患者たちはさっきまで浸かっていた自分の不幸からふと目が覚めたような顔で、いまはどこですか、と尋ねた。その答えを知っているときも知らないときもあったが、それより大事なのは、いまだにエメラルド色のユニフォームを脱ぐことができない彼女がーーだがそのことが彼女からある輝きを完全には奪っていないままーーあの冬のある日のように、どこかへと足を運びつづけているという事実だ。
「私たちがどこかの星で」p.246
不安定で曖昧で、確固たるものが見えずにいる日々の中で、ときには明日を信じる「フリ」が必要なときがある。それがフリだとわかっていたとしても、明日のお弁当に入れる甘い卵焼きが必要なときがある。「致命傷を負った世界」で生きていくために。
それが少しだけ、ほんの少しだけ、心を慰めてくれるときもあるのだ。
甘さがある、とにかく今日も甘さのある日ではあった、と。
「普通の時代」p.281