良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

『収容所のプルースト』ジョゼフ・チャプスキ

 

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「文学の意義」「文学部の意義」、よく問われるこれらのキーワードに対して苦々しい思いを抱いているのは私だけではないだろう。文学を学ぶこと、文学を楽しむことになんの意味があるのかと、「何の役にも立たない」「ただの娯楽」と蔑まれることもある文学。それに対しての私の答えは、もう決まっている。文学は祈りであり、私を私たらしめてくれる、肯定してくれる精神性そのものであり、生きる糧であると。


祈りを表象するものは、人それぞれだ。それがたまたま私にとっては文学であっただけだ。人によっては、それが映画だったり、故郷の風景であったり、孤独であったり、愛であったりするのだろう。何でも良いのだ。ただ、その祈りなくして、人間性は保たれないと、私は思う。そして、多くの人間に「そのひと唯一の」読みを許し(語弊があるかもしれないが、誤読という意味ではない)、「これは私のために書かれている」と思うことを許すもの、それが文学なのではないか。それがどれだけ人間性を支えてくれるか、救ってくれるかは想像に難くない。

 

 

収容所では、肉体の維持が最も重要となる。だが、肉体にのみ関心を向ける生き方は、多くの場合、人間の尊厳を傷つける。まさに「人はパンのみにて生きるわけではない」のであり、精神的活動がなければ、日々はただ生存の連続にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し、わたしを他者と区別する。つまり、人間を人間たらしめてくれるのだ。多くの収容者が必死で日記を付けようとするのも、このためである。読書の機会もかけがえのないものとなる。
p.172 プルースト、わが救い――訳者解説にかえて

 

 

明日は死ぬ身かもしれないのに、なぜ文学作品を思い出し、伝えることが、それほど重要なのか。それは文学が「私たちがここにいるわけを教えられる」からにほかならない。といっても、合理的な説明を与えるということではない。ただ、過去にも同じような状況があり、その状況を把握する精神があり、それが言葉として残されていることを確認するだけで、わたしたちは「いま・ここ」しかない人生から、少しはみ出すことができるのだ。
p.174 プルースト、わが救い――訳者解説にかえて

 

戦時下など凄惨な環境下においての文学の重要性は様々な書物で語られている。私が読んだものだと、岡真理『アラブ、祈りとしての文学』が真理に迫っていると思う。岡真理はこの問題についてアラブ文学の観点から考察しているが、時代も場所も違えど、彼女の批評と通じるものが本書にもある。

 

本書『収容所のプルースト』は収容所という過酷な状況で捕虜として捉えられたポーランド将校であった著者が行った、プルースト失われた時を求めて』に関する講義録(口述筆記されたもの)だ。文学が捕虜たちにどれだけの影響を与えたかは直接的にはあまり語られていないが、小さな部屋で、きっと夢中になって講義を聴いていたであろうたくさんの同胞たちは、「いま・ここ」しかない人生からはみ出すようにプルーストを読んでいくことで人間性を保てたに違いない。このことを「現実逃避」などという短絡的な言葉で退けてはならない。

 

 

いまでも思い出すのは、マルクスエンゲルスレーニン肖像画の下につめかけた仲間だちが、零下四五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのときわたしたちが生きていた現実とはあまりにかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。
p.16 著者による序文(一九四四年)

 

 

わたしたちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、ひとつの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業のあいだ、わたしたちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。
p.17-18 著者による序文(一九四四年)

 

講義は収容所の食堂で行われたため、もちろんチャプスキの手元に書籍などは存在しない。すべて記憶を頼りに語っているため、引用などに関しては記憶違いも数多く存在する。だがそれがかえってリアリティのあるプルースト論となっている。彼の血肉となった、「チャプスキオリジナル」なプルーストの姿が立ち現れているのだ。チャプスキの講義のように、プルーストの人生に添わせて文学作品を解釈していくやり方は、現在ではあまり好まれない文芸批評の方法かもしれないが(バルトの言うようにテクスト読解において作者は殺してなんぼである、私も基本的にはこっちの批評方法のほうが好みだ)、この講義が行われた特殊な環境下においては、チャプスキの批評方法のほうが、チャプスキを、そして聴衆である捕虜たちの心を捉えたのだろう。

 

他者の人生に思いを馳せること、そしてそこから想像し、作品を読んでいくこと。「そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応」し、感動したり、驚いたり、意見をぶつけたりすること。それはきっと、チャプスキだけではなく、その講義に参加した多くの捕虜たちの時間も、薔薇色に染めたに違いない。

 

本書はもちろん、プルースト入門書としても面白く読める。私はプルーストを読んだことがなく、『失われた時を求めて』に関してもマドレーヌと紅茶のことしか知らない(読んだ人の話を聴いてもだいたいマドレーヌで終わっている笑)。プルーストが聴覚過敏で音を遮蔽するためコルク張りの部屋に閉じこもって作品を書いていたことや、病気がちで伏せっていることが多く、ベッドの上に紙が散らかった様子などは、私が勝手に想像していたプルースト像とはだいぶ違っていて驚いた。もっとすました態度で斜に構えた、裕福で恵まれた作家だと思っていた(ググることすらしていない不勉強さがバレる)。

 

「人間の魂の最も密やかで、多くの人が知らずにおきたいと願う領域に、その分析のランプの光を投射」(p.81「プルーストに関する連続講義」)してきたと語られるプルーストの作品を、「読みたい!」と思わせるのはやはり、チャプスキのプルーストへの愛ゆえだろう。

 

 

プルーストの読者は、一見すると単調な波間を掻きわけながら、出来事ではなく、しかじかの人物を通して感じられる、休止することのない生そのものの波動に、心打たれるのです。
p.48「プルーストに関する連続講義」

 

 

プルーストを読み返して――実際、何度も読み返しました――、新しい焦点、新しい見方を発見しなかったことなどないのですから。
p.69-70「プルーストに関する連続講義」

 

このように言われると、いっちょ、あの大作に挑んでみるか!という気持ちになるし、プルーストを読んだあとにもう一度本書を読んでみてもまた違った考え方ができるのかもしれない。

 

 <関連書籍>
・ティモシー・スナイダーが著した、第二次世界大戦ソ連・ドイツが行った凄惨な政治犯罪を描く『ブラッドランド』にもカティンの森の生き残りとしてチャプスキの名は何度か登場する。 

www.yoiyoru.org

 

 

 ・「労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である」と語ったのはシモーヌ・ヴェイユ。彼女の思想も(ややエッジィが過ぎる点はあるが)生きる上での詩(文学)の重要性を説いている。

シモーヌ・ヴェイユの詩学

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・もちろん、プルーストもいつか必ず読みたい。マドレーヌを超えたい・・・!

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

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収容所のプルースト (境界の文学)

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