嫌いな本について喋る回。
嫌いな本のリンクを貼るのはさすがにはばかられるので、今回は割愛。
書名は上記ラジオのDescriptionに書いていますし、ラジオではっきり公言しています。
嫌いとはいえ、能動的に、自ら選んで読んでいるのでその時点で半分くらいは嫌いじゃないのかもしれない。でも読まなければ嫌いかどうか分からない。
好きなことに共感すること、と同じくらい嫌いなことへの共感は仲間意識を生みやすい。書籍で言えば、物語よりも思想の方がこれは顕著な気がする。家父長制を憎んでいる、そのことで薄っすらとつながりが見える。しかしこれは本当に脆く、破れやすい膜。その点、好きなことでのつながりは、そこそこ丈夫なコットンの布。
「嫌い」は「好き」に比べてデリケートだ。タブーも多い。だからこそ秘密の共有が仲間意識を生むのだろう。
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『怒りの人類史:ブッダからツイッターまで』に、暴力は必ずしも怒りからは生まれないとあった。怒りと憎しみ、似ているようで違う。そして暴力はそれら以外の情動からも発生する。
収容所にいる人々すべてに共通していたのは「不信と怒りと嘘」だけだった。
p.91
まちがいなく、これまでみてきたディストピアでの暴力の多くは、怒り以外の原因から発生している。
p.92
好きと嫌い、で言うと私はどうやらネガティブ感情の方に興味があるようだ。怒り、憎しみ、差別意識、劣等感・・・。それらを持ち得ない人間はおそらく存在しない。しかしそれらとなんとか取っ組み合い、抑え込んだり、解放したり、論理を与え解決の道を探したり、そういう人間の営みに興味がある。だからそれらを取り扱った作品を手にとって絶望しがちである。楽しいわけでは、多分ない。けれども目を背ける行為が許せなくて、いやだなあ苦しいなあと思いながら、ゆっくり読む。
単純でコミカル、ちょっとした悪口の無反省さ、それが与える暴力性。嫌いな本について喋っておきながらこんなことを言うのは矛盾している気がするが、その意識は忘れないでおきたい。