良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

亀の名前が思い出せない

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日記というものをデジタルで書くのはいつぶりだろう。と思ってブログを見てみたら2018年だった。4年も経っていた。

手書きの日記は多分去年暮れくらいから細々続けている。適当に書きなぐっているので正直内容はほぼ無。実のあることは大して書かれていない。それでもなんとなく続いているのは、頭の中の霞がかった何らかの思考を記号化して外に出したい、楽になりたいという欲求から。排泄とか嘔吐に近い感覚があり、だから最近は人に見せるのも憚られて誰にも見せていなかった。

それなのになぜまたいきなり「日記、良いのでは?」となったかというと柿内正午さんの『プルーストを読む生活』を読んだから。柿内さんからお声がけいただき、「ポイエティークRADIO」にゲスト出演の機会することになったのは収録の2日前。Twitterなりポッドキャストなりブログなりでは柿内正午さんのことを存じ上げていたものの、まともに喋るのは初めてなので、これはすべての柿内アウトプットを吸収せねば失礼にあたるとゆる言語学ラジオで学んだ、と奮起するも時既に遅し、大量のポッドキャストは聞ききれないし本すら買っていないしこの世の終わりだった。それでもなんとか『プルーストを読む生活』をだけはAmazonお急ぎ便で手に入れて、お急ぎいただいて申し訳ありませんと思いつつ読み始めた。

ポイエティークRADIOでも話したが、いままでZINEとか、そういう、所謂同人誌?のようなものや、ゴリゴリのプロではないが、書籍を出版されている方々の著作を正直避けていた。読まないわけではなかったけれど、勝手に親近感を抱いてしまい、「会社員なのにこんな活動もされているのが凄すぎる」「シンプルに文章が上手い」「俺が一日寝ている間にこういう方々はめちゃくちゃに努力をしている」とまた勝手に比較して凹んでしまうから。私自身、出版したいとか、上手にアウトプットしたいとかの欲も夢もなくインターネットで駄文を書き散らかしたりポッドキャストで好き勝手することで十分満足しているので、そもそも比べるのはおかしいし失礼だろと思いつつも、ぼんやり凹んでしまうので避けがちだった。凹むなら努力しろよ。何様なんだよ。

だから怖かった。しかし、どうせ『プルーストを読む生活』はいつか読もうと思っていたし良い機会、と自分に言い聞かせながら頁を繰ると存外良くて、いや本当に良くて、これは別に媚びではない。普通に良かった。正直、もっと適当だと思っていたし、フワッフワシティボーイズ日記なんでは?とも思っていた(多方面に失礼)。意外にも骨太な日記。穏やかで、硬派な文章。いかんせん分厚いわねとは思うが、ゴリゴリ読んでしまう。装丁もかわいい、亀は柿内家の亀なんだそう。名前を聞いたのに忘れてしまった。アルベール・カミュ?いやちがう、でもアから始まっていたはず、アーノルド・シュワルツネッガー?思い出せない。

表面的にはそんなにプルーストは読んでおらず、たくさん他の本を読み耽っているように見えるのに、いつのまにかスワン家は通り過ぎている。この本の中で柿内さんがプルーストを読み終わるのかどうかは定かではない。具体的な良さについては著者に直接ぶつける謎ムーブをかましてきたのでここでは割愛するが、まだ読んでいない頁の良さはまたどこかで書くか喋るかしたい。この本に書かれていること、それはひとりの人間の生活と、常にそばにある、読んだり読まれなかったりする本のことだった。端的に言うとそれだけだ。でもそれ以外で大切なことなんて、私には分からないのだった。

Twitterが台頭する前、もともと野良ブログが好きだった。同じような本を読み、感想をインターネットで書き散らす人たちのことが好きだった。感想文なのか批評なのか何なのか分からない部類の文章が好きだった。そんな人達が書く、なんてことない日記が、好きだった。更新が止まっているのは分かっているのに何度も見に行ってしまう、そういうブログがあったし、ある。それを思い出した。日記が好きだったことを、思い出した。

そしてこの本をリュックに詰めて街へ出かける。朝食がわりに初めてのゴンチャでタピオカミルクティーを子供連れに囲まれて気まずくなりながら啜り、中年には甘すぎるという哀しめの感想を抱き、読んだ。タピオカのことをパールと呼称するのは何の意図があるんだ。この本は引用が多い。もちろんプルーストからもたくさん引かれている。この本を読むことすなわち失われた時を求めたことになるのではないか。失われた時を求めずして求めたことになるのではないか。ともにプルーストを読んでいる感覚はとても嬉しい。学生時代に書いて今でも心の拠り所になっている卒論のことを思い出す。なにぶん若さが溢れており読み返すのに相当の勇気がいるシロモノだが、書き終えた瞬間の世界の美しさをずっと覚えている。たいして分かっていないのに格好良さだけでデリダを、ミンハを、引用しまくった。それでもその論が書かれたことを言祝いでくれた先生がいた。この話、何度もしていて老害仕草だな。新刊書店に移動して本を買う。楽しみにしていた『ロシア現代文学入門』、ベケットの話を柿内さんとしたのでずっと迷っていたベケットの『ワット』をうきうきとレジに持っていき、店員さんを煩わせることなく購入してやると意気込んでソロレジ(?)でもたつき、意気消沈しつつもブックオフと近くの古書店をひやかす。この街の本屋、文芸棚でプルーストを読んでいない本が無いように思えてくる。私以外の全員がプルーストと夏を過ごしたりプルーストを解読したりプルーストを読む生活を送ったりしている。ブックオフでクノー『文体練習』、古本屋でシオラン絶望のきわみで』を購入。

本を読むことよりも本を買う、単に消費の快楽への後ろめたさを隠蔽するために、少しでも消費っぽさが薄れる本という物質を買っているのではないか。本ではなくて服でも絵でも寝具でも消費の快楽を得られればそれで良いのではないか。そう思わなくもない。思わなくもないが、買う。別にそれでも、市場に貢献できているなら良いか、という気持ちで買っている。買うことで3割くらいは読んだことになる。

帰宅して夜中に『黄金虫変奏曲』を読む。作中に出てくるゴルトベルク変奏曲グレン・グールドのレコードなので、グレン・グールドの鼻歌交じりの盤をいつもBGMにしている。ミニマルな音の粒、変調していく主題、フレーズの追いかけっこ、アルトで歌うグールド、大好きなのにいつも思い出せなくなるメロディー。音が跳ねて明るく活発なときもあるけれど全体的に切ない音楽。

良くも悪くも一生言葉に囚われている。

ベケットが好きな理由も、『黄金虫変奏曲』が好きな理由も多分根っこは同じで、「言葉では表せないものをなんとか言葉を尽くして描こうとしている」ところ。多くの文芸作品がそうなのかもしれないが、わかりやすくその姿勢が見える作品が好きだ(ここでいうわかりやすさは、作品自体のことではない、あくまで私が感じ得る姿勢の話)。たとえば死。たとえば愛。たとえば音楽。記号や五感の描写、風景、そういうもので輪郭を与えても本質はおそらく永遠につかめない、それでも言葉で表現しようとする無謀な試み。その企みに乗りたくて本を読んでいる。

いつもかわいいお写真を拝見していた鳥さんが亡くなったことを知る。後頭部を殴られたようになる。残された家族のことをずっと考えてしまう。猫を亡くしたことを思い出す。抱きしめても泣き喚いても魂が抜けていくのを感じたあの瞬間のことを思い出す。いつか死ぬ。私も猫もパワーズも柿内さんも死ぬ。エリザベス2世も、プルーストベケットも死んでいる。分かっている。声を、かけたいと思う、できない、言葉が見つからない、できなくて悲しくて『黄金虫変奏曲』を読む、いつか死ぬ、と思いながら読む、オディとキースが別れたところ、フランクとオディはキスをするがあまり色っぽくなくてそれが逆にかわいい、かわいい鳥さんへ祈る。どうか安らかに。

いつか私もかわいくないまま死ぬ。

それまでは生活をし、読み、祈り、書き、話そう。それ以外に大切なことは、わからない。

 

 

プルーストを読む生活

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