良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

『竜のグリオールに絵を描いた男』ルーシャス・シェパード

f:id:yoiyorU:20191212183644p:plain

 

グリオールは巨大な竜。その大きさは背中までの高さが750フィート(約228m)、長さが1マイル(約1.6km)ほどもある。かつて魔法使いがグリオールを殺そうとして失敗し、完全に殺すことはできなかったものの、竜の身体は麻痺して動かなくなった。何千年もの時をかけ、表皮には木々が生い茂り川が流れ、竜の身体は巨大な森のようになっていった。背中には人々が集まり、いつしか村ができ、竜の鱗やそこに生える植物で商売を始め、口腔内にも社会からのはみ出し者たちが巣食うようになっている。しかし、竜の霊気は衰えず、人々の意識に影響を与え続ける。竜はまだ、ゆっくりと成長を続けているのだ・・・。

 

というのが、この「グリオール」シリーズの世界設定。


本作には、グリオールに翻弄される人々を描いた4つの短編が入っている。
舞台設定だけでもだいぶワクワクする内容ではなかろうか!!
竜と戦ったり、竜が仲間になったりするのではなくて、竜そのものはほとんど動かず、恐れながらも竜を生活の糧として組み込んでしまった人間の業と知恵、人間同士の関係性や、竜を中心として生まれた人間社会にフォーカスを当てているのがとてもユニーク。

 

そもそもグリオールの「影響」が具体的にどんなものなのかははっきりと分かっておらず、村の人々が陰気だとか、鱗にほど近い場所で生まれたため美貌に恵まれているとか、幻が見えるとかいうもの。必ずしも悪い影響だけではなさそうなところも、例えば海や月の満ち欠けのような「科学的に証明されていることもあるけれど、それだけでは説明のつかない、巨大で不気味だが神秘的でもあり、人間を惹きつけて止まない存在」と同じなのかもしれない。

 

 

ただ、自由と支配、意思と強制、環境と人間、社会と個人、行為と責任という、我々の存在の根源に関わる問題を、生々しいイマージュとして提示し、ここまで切実に身近に感じさせる小説は滅多にあるものではない。グリオールという存在を設定することでそれが可能になっていることは言うまでもない。ファンタジィとは本来このように作用する。そしてシェパードの作品のどれにも通底する性格でもある。どの小説にあっても、超自然的存在やシチュエーションは、あまりに大きすぎるので直視するのを普段は避けている問題を、あらがいようもなく、突きつけてくる。
(解説 p.416)

 

以下、4作それぞれの感想を。

 

■竜のグリオールに絵を描いた男
表題作は今年バカ売れした傑作SF短編集、伴名練『なめらかな世界と、その敵』の中に収録されているこれまた最ッ高!!!な傑作、「ひかりより速く、ゆるやかに」の数ある元ネタのひとつ。わたしは伴名練の方を先に読んでいたので、「これがこう化けるのか、やられた!!」という気持ち良さがあった。

多分逆なら逆でニヤけながら読めるはず。かつての魔法使いが殺し損なったグリオールを、竜の皮膚に絵を書くことで、絵の具の毒で殺していこうとする画家の物語。

これだけ、その画家についての研究書からの引用、というメタ要素が入っているのだけれど、この設定は早々に止めたようで(笑)、その後の作品には出てこない。初志貫徹頼むよ、とも思ったけれど、その設定がなくても十分楽しめたので良しとする。

 

■鱗狩人の美しき娘
とある事件によりグリオールの口腔内に逃げ込んだ美しい女の半生。当初は元の世界に戻れないことに気落ちして鬱状態だった彼女が、次第に生物学・植物学的なところからグリオールの体内の観察に興味を持ち始め、知識欲に突き動かされ、生命力を取り戻していく様子は、やはり人間は知識欲がないとダメだなと思い知らされる。わたしも日がな一日寝ていないで勉強しよ。なかなかに官能的な箇所もあって、住んでいるところが粘膜なだけあるなあと(?)。彼女がグリオールから抜け出せるのか、そこで一生を終えてしまうのかが気になって仕方なくて、ぐんぐん読み進めてしまった。

 

■始祖の石
グリオールの皮膚から形成された石をめぐる、宝石研磨師の男とその娘の愛憎にミステリとカルト宗教の風味を加えた一品。

娘ミリエルが非常に蠱惑的で惹き寄せられてしまう。ラストがわたしはいまいち気に食わないが、ちょっとしたトリックもあって楽しめる。

 

■嘘つきの館
グリオールが子供を欲しがり、女に化けた竜がグリオールの性質を持つ人間の男と交わらせ、子を成すというお話。異形との禁忌の愛・・・というとロマンチックなようだが、竜(女)と男との間にあるのは、男が期待した慈しみや愛情ではなく、ただ暴力的で動物的な繁殖への欲求。

本書は全体的にエロティックでバイオレンスな描写もそこそこあって、この作品が一番バイオレンス味が多かった気がする。竜の理不尽さというか、人智を超えた「暴力」がガツンと読者を叩きのめす感じ。この作品がわたしは一番好きかな。

 

どれをとっても竜の目に見えない圧倒的な力に翻弄される人間たちの生き様や、竜自身が大地と一体となり動植物を育んでいく美しさが堪能できる素晴らしいハイ・ファンタジーとなっている。

 

ということで、本書を読了してから感想を途中でほったらかしていたら続編も出版されてしまった(うれしい!)。

こちらも読むのがとても楽しみ。

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

竜のグリオールに絵を描いた男 (竹書房文庫)

 

 

タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短篇集 (竹書房文庫)
 

 

『ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』ティモシー・スナイダー

 

f:id:yoiyorU:20190802005033p:plain 

3〜4年前くらいからだろうか、ホロコーストに関する本を細々と読み続けている。理由は世界でもおそらく最も有名な大虐殺の歴史だということ、その歴史を踏まえた文学作品が数多くあり、歴史を学ぶことでよりそれらへの理解を深めたいという気持ちがあったからだ。恥ずかしながらナチスといえばアウシュビッツ収容所、くらいの知識しかなく、本当に早く勉強しておけばよかったなと後悔している。まあ、悔やんだところで何も変わらないので、これからゆっくりでも読み続けていくしかない。歴史を繰り返してはいけない、で思考停止しては意味がないと思うから、常に学び直し、問い続ける姿勢を持っていたい。

 

本書は20世紀なかば、ナチスソ連の政権がポーランド中央、ウクライナベラルーシ、バルト諸国、ロシア西部で行った大虐殺の歴史を紐解いている。著者はこの地域を「流血地帯(ブラッドランド)」と呼ぶ。
この地域で行われた戦争犯罪を軸に、ナチスソ連の政権誕生から台頭、第二次世界大戦、その「最終解決」、そしてその後のアメリカはじめ主要国の動向までを時系列に沿って追うことができる。

 

驚いたのは、銃や有名なガス室というだけでなく、「飢餓」がかなり多くの人間を殺していたということ。死亡者の数でいうと餓死>銃殺>ガス殺。殺戮工場としての収容所についての印象が衝撃的なこともあるが、ガス殺についてしか知らない人も多いのではないだろうか。私もそのひとりだ。
ソヴィエト・ウクライナでは食糧分配も当局が「資格を与えた」者のみに行われ、農民たちは、栄養失調で膨れた腹をかかえ、自身では食べられない穀物を作り続けていたのだ。人々はバタバタと死んでいき、もちろん、人食も行われた。子どもたちが、先に死んだ子どもを食べ、家族内でも人食は避けられなかった。

 

 

「(・・・・・・)ある日のこと、子供たちが休に静かになったので、どうしたのかと振り返ってみると、ペトルスという名のいちばん幼い子をみんなで食べていたのです。皮膚を剥がしては口に運んでいました。ところがペトルスも同じことをしていました。自分の皮膚を引っ掻いて剥いで、できるだけたくさん食べようとしていたのです。ペトルスの傷に口をあてて血を吸っている子もいました。わたしたちはペトルスをみんなから引き離し、声をあげて泣きました」
上巻 p.101

 

ドイツでも戦争捕虜収容所で、ソ連と同様に、饑饉計画が実行されていた。

 

 

どの収容所でも捕虜たちは、草や樹皮やマツの葉など、なんでも手当り次第に食べた。犬が撃ち殺されないかぎり、肉を口にすることはできなかった。たまに馬肉を食べるチャンスに恵まれる者もいた。捕虜たちは調理器具を舐めようとして競い合い、ドイツ人の警備兵たちはそれを見て笑っていた。カニバリズムがはじまるとドイツ人はこれこそソ連の文化レベルが低い証拠だと決めつけた。
上巻 p.281-282

 

ヒトラースターリン、目的や思想は違えど、共通しているのは自身の政策の失敗を他者(国・民族)のせいにし、国民の怒りや失望を自身や政府からそらしていたことだ。彼らの物語を確固たるものにするためだけに、多くの人が殺された。このことに既視感を覚えるのは私だけではないだろう。今の日本もこのような姿勢になってきているような気がする。ここまでの大虐殺が実行されているわけではないが、じわじわと、私たちは追い詰められている。思想を奪われ、芸術を奪われ、金を奪われ続けて。それは言うまでもなく、とても、とても危険なことだ。

 

流血地帯で殺害された人数は1400万人。この数字に兵士は含まれていない。そして、この大量虐殺が行われたのはたった12年の間。

 

1400万人、東京都の総人口数をゆうに超える数値だ。途方もなさすぎて、想像するのが困難なほど。だが、「数値」というものはインパクトがあるだけに、感情をゆさぶってくる。死者を悼む心があるからこそ、悲しみ、怒る。だからこそ、被害国はその数値を誇張したりもしていたのだ。

 

 

ヨーロッパ人は誇張した数値を繰り返し発表し、自分たちの文化の中に、存在したこともない何百人もの人々の幽霊を解き放っている。残念なことに、このような亡霊は力を持っている。犠牲の度合いを競えば、しまいには犠牲者数を盾に他者に圧力をかけるような「帝国主義」に立ちいたる恐れもある。
下巻 p.274

 

「数」に対しての著者の見解が結論に述べられているのだが、この姿勢を胸に刻んでおきたいと強く思う。著者の言うように、途方も無い数を「抽象的な数」として見るのではなく、ひとりひとりを思うこと、1人×1400と考えること。

 

 

死の記録はどれも唯一無比の生を――与えることはできないが――示唆する。われわれは死者の数を集計するだけではなく、犠牲者ひとりひとりを個人として扱い、向き合うことができなければならない。
下巻 p.276

 

 

ナチスソ連の政権は、人々を数値に変えた。その中には、推定することしかできないものもあり、かなり正確に洗い出せるものもある。われわれ研究者の責務は、これらの数値をさがし出し、総合的な見地から考察することだ。そしてわれわれ人間主義者の責務は、数値を人に戻すことだ。
下巻 p.277

 

著者は事実を淡々と、落ち着いた筆致で書き記す。ときおり、市井の人々の名と、声が挟まれる。歴史を知ることができるのは、記録があるからだ。生き残った人々が語ったからだ。記録されることなく亡くなっていった人も、それぞれに名前があり、人生があったということを忘れてはいけない。もちろん、被害者側だけでなく、加害者も、傍観者にもだ。

 

 

アーレントグロスマンからは、ふたつの明快な考えが導き出される。そのひとつは、ナチス・ドイツソ連を正当に比較するには、犯罪について説明するだけでなく、関係したすべての人々――被害者、加害者、傍観者、指導者――の人間性についても検証しなければならない、ということだ。もうひとつは、死ではなく生からはじめるべきだということだ。死は解決ではなく、ひとつのテーマにすぎない。

下巻 p.245

 

本書には以前読んだ『収容所のプルースト』で出会ったポーランド将校のジョゼフ・チャプスキの名も出てくる。彼はカティンの森事件の数少ない生き残りだ。 

www.yoiyoru.org

また、ソ連のジャーナリスト、ワシーリー・グロスマンの作品や、ギュンター・グラスの作品も登場する。ハンナ・アーレントの論考にも触れているので、本書の前に少しでもそのあたりの作品に触れておくとより理解が深まって良いのかもしれない。

 

 

グロスマンの登場人物のひとりが声をあげて言ったように、ナチズムとスターリニズムに共通する重要な要素は、人間が人間と見なされる権利をある特定集団の人々から奪う能力を持っていたことだ。唯一の対応は、それはまちがっていると繰り返し主張することだろう。ユダヤ人もクラークも「人」なのだと。「彼らは人間なのだ。いまわたしにはわかる。わたしたちはみんな人間なのだ」と。
下巻 p.244

 

私たちが人間性を失わずに生きていくために、歴史を学ぶということがどれほど大切かが本書下巻の「結論 人間性」を読むとよくわかる。結論は本当にすばらしく、胸を打つ内容だ。

本書は上下巻とボリュームもあるが、巻末に要旨もまとめられており、読了後に全体の流れを復習することもできるし、かなり「読ませる」文章なので、ぐいぐい引き込まれていく。臆することなく、ぜひ読んでみてほしい。

 

 

<関連書籍>

ホロコーストに関してはこの新書も良かった。こちらはナチス、ドイツ、ユダヤ人という観点が主となっているが非常によくまとまっていて、要所がおさえられると思う。

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書)

 

 
アーレントに関しては、私はまずこの新書から入った。彼女の半生をなぞりながら、思考の軌跡も共に辿ったアーレント入門書。『イェルサレムアイヒマン』は積んでいるので近いうちに読まなければ。

 

グロスマンとグラスについては、どちらも未読なのでこのあたりから読んでみたい。

人生と運命 1

人生と運命 1

 
ブリキの太鼓 (池澤夏樹=個人編集世界文学全集2)

ブリキの太鼓 (池澤夏樹=個人編集世界文学全集2)

 

 

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

ブラッドランド 上: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

 
ブラッドランド 下: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

ブラッドランド 下: ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 (単行本)

 

 

『掃除婦のための手引書』ルシア・ベルリン

写真や映画を見たとき、「ああ、この瞬間を切り取るとは!」とその鮮やかさにハッとする時がある。映像だととくにそれが顕著だが、文学でもその瞬間はあって、まるで新鮮な果物を研ぎたての刃物で半分に切ったときのような、毛羽立った表面からは想像もし得ない艷やかな断面にドキッとする時がある。

 

ルシア・ベルリンを読んで一番に感じたのはその「切り口の鮮やかさ」だった。

 

 

ルシア・ベルリンの小説は帯電している。むきだしの電線のように、触れるとビリッ、バチッとくる。読み手の頭もそれに反応し、魅了され、歓喜し、目覚め、シナプス全体で沸き立つ。これこそまさに読み手の至福だ――脳を使い、おのれの心臓の鼓動を感じる、この状態こそが。
 p.292「物語こそがすべて」リディア・デイヴィス

 

描かれているのは、彼女が暮らした「物語」だ。
私小説の部類に入るのだろうが、私がいままで読んできたどの私小説よりも彩り豊かであった(そもそも私小説はあまり好んで読まず、パッと思いつくのが太宰治芥川龍之介藤枝静男西村賢太あたりなので偏りがあるのはご容赦願いたい)。私小説らしからぬ私小説で、私は訳者あとがきやリディア・デイヴィスが寄せた文章を読み初めてこれが私小説だと知った。

 

 

<実際のできごとをごくわずか、それとわからないほどに変える必要はどうしても出てくる。事実をねじ曲げるのではなく、変容させるのです。するとその物語それ自体が真実になる、書き手にとってだけでなく、読者にとっても。すぐれた小説を読む喜びは、事実関係ではなく、そこに書かれた真実に共鳴できたときだからです。>
事実を捻じ曲げるのではなく、変容させること。
p.307「物語こそがすべて」リディア・デイヴィス

 

ひとつひとつの作品はとても短く、それでいてバリエーションがとても豊かだ。これは彼女の人生が波乱万丈であったことにも由来するのだろう。
アメリカ西部の鉱山町から転々と住居を移し、様々な職に就き、身分も変わり、結婚をし離婚をし、依存症も経験し、子を育て、家族の介護に明け暮れる日々を過ごしながら彼女は書いた。その物語それぞれの切り口がとても鮮やかで、いちいちハッとしてしまうのだ。「そこでそう来るか〜」「あ〜もうこの感じ!!知らないのに超知ってる!!」と頭を抱えてしまう。もちろんいい意味で。

 

表題作では、主人公はバスに乗りあちこちの家を掃除しに行く掃除婦だ。彼女は行く先々で、ちょっとしたもの(睡眠薬やマニキュア、香水、トイレットペーパーなど)をくすねたり、もらったりして、仕事仲間と笑ったり、ユーモラスな「手引き書」を考えたりしながらバスに揺られていく。

 

 

(掃除婦たちへのアドバイス:奥様がくれるものは、何でももらってありがとうございますと言うこと。バスに置いてくるか、道端に捨てるかすればいい。)
p.48


(掃除婦たちへ:猫のこと。飼い猫とはけっして馴れあわないこと。モップや雑巾にじゃれつかせてはだめ、奥様に嫉妬されるから。だからといって、椅子からじゃけんに追い払ってもいけない。反対に、犬とはつとめて仲良くすること。着いたらすぐ、チェロキーだかスマイリーだかを五分、十分となでてやる。便座のふたは忘れずに閉めること。顎の毛皮からしずくがしたたる。)
 p.53

 

彼女の思考はとりとめなく、あちこちに飛ぶが、恋人の死だけは頭の片隅に固定されている。通りの落ち葉を見つめながら、紅茶を入れ、勤め先の主人と話しながら、パズルのピースを探しながら、死んだ恋人を想う。この感覚、何かを失ったことのある人ならわかると思う。表面はなにもかも諦めたように振る舞い平然と仕事をし、笑ったりもするが、喪失の部分だけがいつまでも消えない焦げつきのように、残ったままになっている感覚。

 

 

40番―テレグラフバークレー行き。
 (……)わたしのバスが来る。テレグラフ通りをバークレーまで。マジック・ワンド美容院のウィンドウには、ハエタタキの先にアルミホイルの星をつけた魔法の杖(マジック・ワンド)。お隣の義肢ショップの店先には、お祈りのポーズの両手、それに脚が一本。
ターは絶対にバスに乗らなかった。乗ってる連中を見ると気が滅入ると言って。でもグレイハウンドバスの停車場は好きだった。よく二人でサンフランシスコやオークランドの停車場に出かけていった。いちばん通ったのはオークランドのサンパブロ通りだった。サンパブロ通りに似ているからお前が好きだよと、前にターに言われたことがある。
ターはバークレーのゴミ捨て場に似ていた。あのゴミ捨て場に行くバスがあればいいのに。
p.56-57

 

頬杖をついてバスの窓から道路で舞う落ち葉や雪を眺めながら「手引き書」の言葉を、行きつ戻りつする思い出を、ぼんやりと考える彼女の姿が目に浮かぶ。
それはいつかの私のようでもあり、どこかで読んだ本の情景でもあり、ルシア・ベルリンその人でもある。

 

この作品集にはたくさんのわたし(たち)がいる。そう思わせてくれる小説は、良い小説だ。時代を超えて共鳴する真実というのは確かにある。それがルシア・ベルリンが言っていたことなのだとしたら、ここにはその真実があると思う。

 

 

「あたしはあんたの内面なんか屁とも思っちゃいない。あたしは文章の書き方を教えに来てんの。あのね、嘘をついたつもりが真実を語っていた、ということもあるのよ。この話はよくできてる。どんなふうに書かれたんであれ、ここには真実がこもってる」
p.245「さあ土曜日だ」

 

彼女の作品には死の臭いが色濃くある。病気で死にゆく妹との病院での生活や、母親、アルコール依存、刑務所での講義など、描かれる光景は様々だが、「残された側」の生活を彼女はこれでもかと鮮やかに切り取っていく。連続体である人生のスナップショットを言葉で撮っていく。

 

 

わたしはサリーが死んでしまうことに怒っているんだろうか。それでこの国に八つ当たりしているんだろうか。こんどはトイレが壊れた。もうフロアごと外に持っていってもらうしかない。(・・・・・・)
死には手引き書がない。どうすればいいのか、何が起こるのか、誰も教えてくれない。
p.183「苦しみの殿堂」

 

 

人が死ぬと時間が止まる。もちろん死者にとっての時間は(たぶん)止まるが、残された者の時間は暴れ馬になる。潮の満ち引きも、日の長短も、月の満ち欠けもお構いなしだ。(・・・・・・)何よりつらいのは、また元の生活に戻ったとき、日々の習慣も記念日も、何もかもが空疎なまやかしに思えてくることだ。すべては人をあやし、なだめすかして、粛々と容赦のない時の流れに押し戻そうとするペテンなのではないかと思えてくる。
p.258-259「あとちょっとだけ」

 

本当にどの作品もしみじみと良くて、リディア・デイヴィスのこの言葉そのままである。

 

 

ルシア・ベルリンの文章ならば、私はどの作品のどの箇所からでも無限に引用しつづけ、そしてしみじみと眺め、堪能しつづけていられる。
p.309 「物語こそがすべて」リディア・デイヴィス

 

この作品集で見た景色をきっとときどき思い出すだろう、バスから眺めた汚い道路を、救命病棟に運び込まれた騎手のことを、死んでしまった刑務所の囚人生徒たちの顔を、アルコールから離れられなかった元夫のことを。

 

この記憶に残る鮮明さ、どこかで知っている・・・と思って考えていたら、小中学生のときに読んだ吉本ばななの作品で経験した鮮やかさだとふと思い出した。『TSUGUMI』で見た熱海の海や、『キッチン』で足の裏に感じた、冷たく薄汚れたキッチンの床。いまもありありと思い出せるその情景と同じように、ルシア・ベルリンの作品もいつか思い出すだろう。それが私の「真実」だから。

 

この作品集は、私が(ルシア・ベルリンほど波乱万丈ではないがまあ並程度に辛酸もなめてきた)中年女性だからこそ刺さる部分も多いなと思っていて、若者が読んだときにどのように感じるのかとても興味がある。

読んだ方はぜひ感想を教えてほしい。

 

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集

掃除婦のための手引き書 ルシア・ベルリン作品集

 

 

『収容所のプルースト』ジョゼフ・チャプスキ

 

f:id:yoiyorU:20190726213537p:plain

 

「文学の意義」「文学部の意義」、よく問われるこれらのキーワードに対して苦々しい思いを抱いているのは私だけではないだろう。文学を学ぶこと、文学を楽しむことになんの意味があるのかと、「何の役にも立たない」「ただの娯楽」と蔑まれることもある文学。それに対しての私の答えは、もう決まっている。文学は祈りであり、私を私たらしめてくれる、肯定してくれる精神性そのものであり、生きる糧であると。


祈りを表象するものは、人それぞれだ。それがたまたま私にとっては文学であっただけだ。人によっては、それが映画だったり、故郷の風景であったり、孤独であったり、愛であったりするのだろう。何でも良いのだ。ただ、その祈りなくして、人間性は保たれないと、私は思う。そして、多くの人間に「そのひと唯一の」読みを許し(語弊があるかもしれないが、誤読という意味ではない)、「これは私のために書かれている」と思うことを許すもの、それが文学なのではないか。それがどれだけ人間性を支えてくれるか、救ってくれるかは想像に難くない。

 

 

収容所では、肉体の維持が最も重要となる。だが、肉体にのみ関心を向ける生き方は、多くの場合、人間の尊厳を傷つける。まさに「人はパンのみにて生きるわけではない」のであり、精神的活動がなければ、日々はただ生存の連続にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し、わたしを他者と区別する。つまり、人間を人間たらしめてくれるのだ。多くの収容者が必死で日記を付けようとするのも、このためである。読書の機会もかけがえのないものとなる。
p.172 プルースト、わが救い――訳者解説にかえて

 

 

明日は死ぬ身かもしれないのに、なぜ文学作品を思い出し、伝えることが、それほど重要なのか。それは文学が「私たちがここにいるわけを教えられる」からにほかならない。といっても、合理的な説明を与えるということではない。ただ、過去にも同じような状況があり、その状況を把握する精神があり、それが言葉として残されていることを確認するだけで、わたしたちは「いま・ここ」しかない人生から、少しはみ出すことができるのだ。
p.174 プルースト、わが救い――訳者解説にかえて

 

戦時下など凄惨な環境下においての文学の重要性は様々な書物で語られている。私が読んだものだと、岡真理『アラブ、祈りとしての文学』が真理に迫っていると思う。岡真理はこの問題についてアラブ文学の観点から考察しているが、時代も場所も違えど、彼女の批評と通じるものが本書にもある。

 

本書『収容所のプルースト』は収容所という過酷な状況で捕虜として捉えられたポーランド将校であった著者が行った、プルースト失われた時を求めて』に関する講義録(口述筆記されたもの)だ。文学が捕虜たちにどれだけの影響を与えたかは直接的にはあまり語られていないが、小さな部屋で、きっと夢中になって講義を聴いていたであろうたくさんの同胞たちは、「いま・ここ」しかない人生からはみ出すようにプルーストを読んでいくことで人間性を保てたに違いない。このことを「現実逃避」などという短絡的な言葉で退けてはならない。

 

 

いまでも思い出すのは、マルクスエンゲルスレーニン肖像画の下につめかけた仲間だちが、零下四五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのときわたしたちが生きていた現実とはあまりにかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。
p.16 著者による序文(一九四四年)

 

 

わたしたちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、ひとつの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業のあいだ、わたしたちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。
p.17-18 著者による序文(一九四四年)

 

講義は収容所の食堂で行われたため、もちろんチャプスキの手元に書籍などは存在しない。すべて記憶を頼りに語っているため、引用などに関しては記憶違いも数多く存在する。だがそれがかえってリアリティのあるプルースト論となっている。彼の血肉となった、「チャプスキオリジナル」なプルーストの姿が立ち現れているのだ。チャプスキの講義のように、プルーストの人生に添わせて文学作品を解釈していくやり方は、現在ではあまり好まれない文芸批評の方法かもしれないが(バルトの言うようにテクスト読解において作者は殺してなんぼである、私も基本的にはこっちの批評方法のほうが好みだ)、この講義が行われた特殊な環境下においては、チャプスキの批評方法のほうが、チャプスキを、そして聴衆である捕虜たちの心を捉えたのだろう。

 

他者の人生に思いを馳せること、そしてそこから想像し、作品を読んでいくこと。「そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応」し、感動したり、驚いたり、意見をぶつけたりすること。それはきっと、チャプスキだけではなく、その講義に参加した多くの捕虜たちの時間も、薔薇色に染めたに違いない。

 

本書はもちろん、プルースト入門書としても面白く読める。私はプルーストを読んだことがなく、『失われた時を求めて』に関してもマドレーヌと紅茶のことしか知らない(読んだ人の話を聴いてもだいたいマドレーヌで終わっている笑)。プルーストが聴覚過敏で音を遮蔽するためコルク張りの部屋に閉じこもって作品を書いていたことや、病気がちで伏せっていることが多く、ベッドの上に紙が散らかった様子などは、私が勝手に想像していたプルースト像とはだいぶ違っていて驚いた。もっとすました態度で斜に構えた、裕福で恵まれた作家だと思っていた(ググることすらしていない不勉強さがバレる)。

 

「人間の魂の最も密やかで、多くの人が知らずにおきたいと願う領域に、その分析のランプの光を投射」(p.81「プルーストに関する連続講義」)してきたと語られるプルーストの作品を、「読みたい!」と思わせるのはやはり、チャプスキのプルーストへの愛ゆえだろう。

 

 

プルーストの読者は、一見すると単調な波間を掻きわけながら、出来事ではなく、しかじかの人物を通して感じられる、休止することのない生そのものの波動に、心打たれるのです。
p.48「プルーストに関する連続講義」

 

 

プルーストを読み返して――実際、何度も読み返しました――、新しい焦点、新しい見方を発見しなかったことなどないのですから。
p.69-70「プルーストに関する連続講義」

 

このように言われると、いっちょ、あの大作に挑んでみるか!という気持ちになるし、プルーストを読んだあとにもう一度本書を読んでみてもまた違った考え方ができるのかもしれない。

 

 <関連書籍>
・ティモシー・スナイダーが著した、第二次世界大戦ソ連・ドイツが行った凄惨な政治犯罪を描く『ブラッドランド』にもカティンの森の生き残りとしてチャプスキの名は何度か登場する。 

www.yoiyoru.org

 

 

 ・「労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である」と語ったのはシモーヌ・ヴェイユ。彼女の思想も(ややエッジィが過ぎる点はあるが)生きる上での詩(文学)の重要性を説いている。

シモーヌ・ヴェイユの詩学

シモーヌ・ヴェイユの詩学

 

  

・もちろん、プルーストもいつか必ず読みたい。マドレーヌを超えたい・・・!

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

失われた時を求めて(1)――スワン家のほうへI (岩波文庫)

 

 

 

 

収容所のプルースト (境界の文学)

収容所のプルースト (境界の文学)

 

 

 

『わたしは英国王に給仕した』ボフミル・フラバル

f:id:yoiyorU:20190811211335p:plain

 

池澤夏樹編の『世界文学全集』にも収められているボフミル・フラバルの代表作がこのたび文庫化!ということで、わたしにとっては初のフラバル作品。

 

この作品はチェコで働く若き給仕、ヤン・ジーチェが百万長者を目指し、エチオピア皇帝に給仕するまでに上り詰め、そして戦争があり、老いて自身の半生を振り返るまでの物語。一歩ずつ夢を叶えていく中で出会った人々の様子や、おかしなエピソード、悲しい別れ、戦争の痛みなどがユーモラスな文章で綴られている。
5つの章が連作短編のようになっており、5つとも「これからする話を聞いてほしいんだ。」からはじまり、「満足してくれたかい?今日はこのあたりでおしまいだよ。」で終わる、読者に語りかけるような形式となっている。

 

彼が送った人生の中でのエピソードはひとつひとつが絶妙なほら話のようだ。コツコツと副業(ソーセージを高値で売るという割とせこいやり方笑)で稼いだ金で娼館に通っては女性の下腹部を花で飾る妄想にふけり、燕尾服を仕立てに行った先では胴体模型が雲のようにふわふわと天井に浮いていたり、愛人と「子どもの部屋」でぬいぐるみに囲まれて過ごす大統領を目撃したり、おかしなエピソードは挙げればきりがないほど。エロティックな描写も多いが、甘美なロマンティックさがあるというよりはドタバタ喜劇の様相を呈している。しかし、面白おかしいことばかりではない。富裕層が酒池肉林で豪遊する様を、給仕ならではの観察眼で見つめるジ―チェは、百万長者を目指しながらも、富の持つ一種の欺瞞性にも気づいている。

 


ここホテル・チホタでわたしは気づいた。労働が人間を高尚にすると考えたのは、ここできれいな娘たちを膝に乗せて一晩中飲んだり食ったりしている人たちにほかならず、それは子どものように幸せになれる豊かな人たちなのだと。そしてわたしは、豊かな人達は呪われているか、どうかしていると思った。(・・・・・・)田舎の家屋にいるのがいかに幸せかといったたわ言はうちに来るような客人たちが考え出したことで、とどのつまり一晩で湯水のように金を使い、東西南北に紙幣を投げ捨てていい気分になっているかれらには、本当はどうでもいいことだったということが、今わかった。
p.87「ホテル・チホタ」

 

裕福な人間が、貧しいけれど働き者の人々を称賛し、「幸せものだ」と勝手に定義してストーリーを作り上げていく様子は、わたしもさんざん、現実世界で目にしてきたし、実際わたしも貧しい側の人間なので、この苦々しい気持ちはすごくよくわかる。

 

 

自分たちが称賛する仕事を夢見心地で眺めるのだが、かれらは決して自分から同じ仕事をしたことなどなかった。もし同じ仕事をしたら、不幸と感じ、幸せなどと言ってはいられないだろう。
 p.88「ホテル・チホタ」

 

幸せか不幸せかを判断するのは自分でしかないのに、他者に三文小説のように消費されてはたまったものではない。ジ―チェはおそらく、それが嫌だったからこそ、百万長者を目指したのではないか。「百万長者になったら幸せになれる」ではなくて、「幸せかどうかを自身で判断するために、百万長者になってから確かめてみる」という姿勢だったのではないかと、わたしは思う。

 

そして戦争。ドイツからナチスがやってきて、否応なく彼も戦争に巻き込まれていく。愛する人を失い、老いてはじめて芸術に触れ、感化されて半生を振り返りながらこの物語を書き終える、というラストなのだが、後半はやや首を傾げてしまった。精神障害を抱えた息子を(おそらくは病院へ送り込んでそのまま)ほったらかし、自分は芸術に目覚め、動物と自然に囲まれ、肉体労働をしながら満ち足りた内省的な暮らしを送る、というのはなんとも都合がよすぎやしないか。


解説を読むとフラバルはケルアックの『ダルマ・バムズ』にある森林観察員の場面をとても気に入っていたようで、そのような美しい場面を描きたかったのかもしれないが、どうもラストだけが浮いて見える。とても静かで美しいのは間違いないのだが、さんざん、荒唐無稽ともいえるエピソードを並べてきて、突然精神的な方向へ一気に舵を切られたのでやや面食らったし、「数奇な人生であった・完」で良いのか?という気持ちに・・・。息子はどうしたんだよ・・・。

 

まあ、ラストはともかくとしても、「給仕」という仕事ならではの観察力や語りの魅力は確実にあって、引き込まれる文章であることは間違いない。
読者に語りかける形式の文頭と文末は、解説にある「パービテル」の語りを表象しているのだろう。

「パービテル」というのはフラバルの造語で、もとは19世紀の詩人が「タバコを吸う」という意味のpalitをもじってpabitとしたのが始まり。その後フラバルが「色々な話を吐き出す」「滔々と話をする人」の意味で「パービテル」という言葉を作ったそうだ。フラバルによると、「パービテルはたいていほとんど何も読んだことがないが、その代わりによく見て、よく聞いている」。様々なエピソードが次から次へと溢れ出してくる様子は「パービテル」の語りそのものだ。

 

この作品は、色々な読み方ができる作品だと思う。戦争文学とも読めるし、成長小説でもあるし、おとぎ話のようでもあるし、少しおかしな愛の物語でもあるだろう。グロテスクで露悪的な描写も少なからずあるので、エログロアンテナをお持ちの方のツボにもハマるかもしれない。もちろんお仕事小説として読んでも面白いだろう。

 

余談だが、この本を読んでいる最中、「今は英国王に給仕しているので他の本は我慢」「さて今日も通勤途中、英国王に給仕しますか」とひとりごちていたのは楽しかった(実際にジ―チェが給仕したのはエチオピア皇帝なのだが。なぜこのタイトルになっているかは読んでのお楽しみ)。

 

君もこの夏、英国王に給仕してみないか?(夏の河出文庫販促キャッチコピー)

 

わたしは英国王に給仕した (河出文庫)

わたしは英国王に給仕した (河出文庫)