良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

読書とコンプレックス

コンプレックスの多い人生だ。容姿はもとより、頭脳もポンコツで、何を始めても三日坊主だし、人間を何十年もやっているにもかかわらず、生活がうまくできない。技能も技術もなく、楽器もできなくなってしまった。絵心もない。
唯一好きで、なんとか人並み(人とは)にできることといえば、本を読むことくらいなのである。とはいえ、速読ができるわけでもない。感想が上手く書けるわけでもない。外国語もできない。読んでいる量も圧倒的に少ない。ないないづくしだ。それでもなんとか、少しでも、好きなものを好きでいた記録を残したくて、こうやって本の感想を書いたりなどしている。


しかし、書くことにもすごく抵抗がある。好きだが、取り掛かるのにとにかく時間がかかるのだ。書き上げたときのカタルシスによるアドレナリン分泌は持って数時間で、その後また「やらなきゃ」「やりたい」「頭痛い」「仕事辛い」「時間ない」「習慣こそがすべて」「いや無理っしょ」「食べよ」「眠い」「寝よ」の繰り返しである。ろくな文章も書けないのに、これだけヒーヒー言っていてどうする、と思う。いやそれ以前の問題だ。ジョギングに行く準備だけで息切れしているようなものだ。これを何十年も続けているのだ。逆にすごい気がしてくる。さっさと手を動かせよ。

 

文章が下手というのも書けない理由の一つだ。自分の文章が好きだった時期もあるし、今も好きなエントリは無くはないが、たいてい感情のほとばしったオタク語でワーキャー言ってるだけのもので、読みやすい構成だの要約だのは無きに等しく、作品の歴史的背景もその言葉が選ばれた理由も何もわからない、わかろうとしていないのかもしれないし、ましてや人に説明するなんて出来てやしない。練習しろ・勉強しろという話だが、基本面倒くさがりなのでやらない。最悪だ。

 

それでも、一度もブログをやめようと思ったことはない。更新が一年に数回になろうと、一行も本が読めない日が続こうと、やめようとは思わないのだ。多分、アクセスが全くなくなっても、電脳宇宙の片隅で公開し続けるのだろう。

 

それならローカルのメモ帳で良いではないか、という説が即座にセカンド自分から唱えられるが、そうではない。誰も見ていなくても、誰でも見ていいよ、という場所に置いておきたいのだ。

 

できないことばかりの人生で、少しでも縋れるものとして、創作ではなくても自分でなんとかひねり出した言葉で、なんらかの事柄を綴っているここを、わたしは自分が思う以上に、大切にしているのかもしれない。他の人に比べたら本当に大したことはなくて、駄文もいいとこだし、ツイッターの延長かもしれないけれど、わたしはここが、結構、好きだ。

 

読書関連のブログというのは星の数ほどあって、わたしも好きなブログはある。それぞれ独特の味わいがあって、本当に素晴らしい文章を書かれている人たちばかりだ。書評ではなくとも、読んだ人の頭の中をなぞるような文章だったり、読んだときの悦びを同時に体験できるような、映画のような文章を書かれる人もいる。それぞれ、とても素敵で、眩しい。ああ、こんなふうに書けたらなあ、と何度も何度も思う。できないなあ、とも何度も何度も思う。

 

できないなりに、こうやって書いたりしてみる。多分わたしは、個人のブログにおいては、きれいに構成されたなめらかなものよりも、凸凹、ごつごつして話があっちこっちいってしまうような、不器用なものも好きだし、だからわたし自身もそういう文章になってしまうのかもなあ、と文章の下手さを正当化してみる。だめだなあ。そうじゃないからとにかく手を動かして、トライ・アンド・エラー、していかないとなあ、あー面倒くさい。やりたくない。やりたい。お腹痛い。もう眠い。寝てしまおうか。こんなの誰が読むんだよ。

 

でもやっぱり、やめようとは思わない。