良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

『『百年の孤独』を代わりに読む』友田とん

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友田さんとは、かつて柴田元幸と佐藤良明のピンチョン『重力の虹』刊行イベントでニアミスしていたのがきっかけで、Twitterで相互フォローとなった。それ以来たいしてネット上で話もしておらず、互いにごくたまにふぁぼり合うだけの仲であり、友田さんが『百年の孤独』を代わりに読む連載を始めたころも、「ふ~ん面白いことやってんな」と思いつつ流し読みしていたらいつの間にか4年が経っていた。4年も同じ本を「代わりに」読み続ける根気がまずすごい。その根気にアッパレと思い、軽い気持ちで御本人から物理書籍となったこの作品を購入し、軽い気持ちで読み始めた。

 

軽い気持ちで読み始めたのに、こんなに揺さぶられるなんて思わなかった。

 

「内輪で盛り上がっているだけじゃないの」「友達の作品だから」などなど、批判は大いにあろうが、私はこの作品に出会えて本当に良かったと、代わりに読んでくれたのが友田さんでよかったと、心から思うし、この稀有な読書体験を多くの方に経験してもらいたい。通販も行っているし、都内・関西の各書店へ友田さんがご自身で行脚しているので、ご興味がある方はぜひ。

 

そもそも誰かの代わりに何かを読む、なんてことが可能なのか。そんなことを言ったら、私が書いているレビューも、この世におけるブックレビューすべてが「代わりに読まれた書物の記録」なのではないか。むしろどこにも何も書かずともただ読んでいるときに「これは○○の代わりに読んでいる」と強く念じることで「代わりに読む」スキルが顕現するのだろうか。肌の色が緑色に光るとき、私は「代わりに読む」スキルを発動しているのだろうか。


読みたい本が多すぎて、誰か代わりに読んでくれと何度も思ったことがあるが、代わりに読んでくれた彼/女の読書体験を聞いたところでそれは私の読書体験にはならない。代わりに読んでもらったところで、それは各々の独立した読書体験なのだ。

 

わからない。わからなすぎる。

 

「代わりに読む」とは何なのか。

 

同じように「代わりに読む、とは何なのか」という命題に対しての答えを模索しながら『百年の孤独』を読み続ける友田さんがマコンドを歩いた軌跡が、『『百年の孤独』を代わりに読む』である。そしてそれを読み、ここにレビューを書かんとしている私は、『『百年の孤独』を代わりに読む』を読んだことのない、誰かの代わりに読んだ人間だ。このメタな構図が、私に不思議な浮遊感をもたらしている。

 

序盤こそ読者を意識した、若干緊張を帯びた立ち位置でマコンドの町に足を踏み入れるが、第10章で旧友・A子に会うところあたりから「代わりに読む」ことのへの問い、マコンドの混迷、友田さんの記憶や意識があれよあれよとドライヴしていく。A子の「まだ読んでたんですか」というセリフがリフレインし、振り戻され、それでも読書は進む。マコンドの繰り返される栄枯盛衰に翻弄されながら友田さんは歩く。スパイ大作戦を、田中美佐子を、ミスドコーヒーフレッシュを、思い浮かべながら歩き続ける。ときおり振り返ってはA子に「まだ読んでたんですか」と言われ、『A子さんの恋人』を読みながら、マコンドを歩いてゆく。

 

これは、いわゆる、ジョイスユリシーズ』やウルフ『ダロウェイ夫人』に代表される「意識の流れ」ってやつではないのか。解説を読んでもいまいちピンと来なかった上にユリシーズなんか読む気にもならなくて分からなかった小説技法がここで腑に落ちるとは。

私たちは『代わりに読む』を読むことで友田さんの意識にダイブする。代わりに読んでいる者を代わりに読む。あちこちに寄り道する友田さんの意識の流れを読み、『百年の孤独』を読み、「そういえば茶が沸いた」と現実に戻り、小泉今日子の出演作をググり、またアウレリャノだかアルカディオだかの物語に戻る。そしてこれを読んでいるあなたも、『代わりに読む』を代わりに読んだ私を代わりに読んでいる。

 

元来、読書とはそういう多重構造を秘めているのではないか。おそらくこのあたりは偉い研究者の方々が何かしらを書いている気がするし、私も論理的に説明できるわけではないので多くを語れないが、『代わりに読む』を読むことでその不思議な感覚に包まれることはできる。

 

この本を読み終えたいま、私の脳裏にはひとつのイメージが浮かんでいる。私の脳内にしかない私のマコンドを、友田さんがくたびれたリュックを背負い、汗をかきながら分厚い『百年の孤独』を脇に抱え、マコンドで起こる様々なできごとを目撃し、ときおり考え込むように立ち止まってはまた頁をめくり、歩いている姿だ。歩きながら読んでいるのでときどき転んだりする。躓いた先には、バナナが転がっていたり、死体が転がっていたり、土を食べるレベ―カがしゃがんでいたりする。

 

「代わりに読む」という「行為」はできないのかもしれない。でも、友田さんが言うように、「代わりに読む者」はいるのだ。

 

代わりに読む者。それは、羊皮紙を解読し続けるアウレリャノであり、それを読む友田さんであり、さらにそれを読む私だ。

 

そして、この文章を読んでくれたあなたでもある。