良い夜を待っている

読んだ本の感想など。最近はPodcastで配信しています。

“良い夜を待っている”

『供述によるとペレイラは・・・・・・』アントニオ・タブッキ

 

 

タブッキは水彩画みたいだ、と読むたびに思う。
はっきりとした輪郭はないのに、離れて見るとちゃんと全体像が浮かび上がって見えてくるところとか、ぼんやりしているようで、細部はハッとするほど鮮やかだったりするところが、よく似ている。

 

ペレイラはうだつの上がらない、太っちょの新聞記者。妻を亡くしてからはひとりで暮らしている。妻の写真と話すのが日常の癒やしとなっていて、毎日毎日、砂糖をもりもり入れたレモネードを10杯飲み(だから医者に怒られる)、オムレツを食べている。新聞の文芸面を任されることになり、ひょんなことからモンテイロ・ロッシという若者に出会い、文芸面の1コーナーを任せるべく、作家の追悼文を依頼する。

 

ペレイラが刮目したロッシの文章は、結局のところほとんど盗用だったし、実際に文章を書かせてみたら酷い出来だったのに、ペレイラは結局、ロッシの面倒を見てしまう。
もし私が20代前半でこの本を読んでいたら、ろくに働きもせずお金ばかりせびって、怪しい政治活動に手を染めているようなロッシのことを嫌っていただろう。仕事も無責任だし、ペレイラの優しさにつけ込んでいるようで。ペレイラペレイラだ、なぜそんなロッシの世話を焼くのかとイライラしただろう。でも今なら、ロッシの面倒を見てしまうペレイラの気持ちが少しわかる気がする。若者の放つ独特のエネルギーの渦に巻き込まれることは、ときにとても心地よいものだ。そのエネルギーが自分の背中も押してくれるような気がして、心強く思えることがある。おお、若者よ、と達観したり諦観したり、説教することばかりが中年しぐさではない。若者たちの力強さは、そのベクトルが自分に向かっていなくても、誰かを勇気づけたりすることもあるのだ。

 

ペレイラの穏やかな日常は、ロッシと出会ってから徐々に変化する。独裁政権の不穏な足音が近づいてくる中で、自分の信条を貫くべく動き出したロッシの行動に巻き込まれ、ペレイラの静かな生活は破綻してゆく。けれどもペレイラは、それを避けようとしない。むしろ最後には、ロッシの放つエネルギーに鼓舞されるように、自ら動き出す。

 

「供述によるとペレイラは」という文章から紡ぎ出される物語は、否応なしに「供述させられる状況にある」ペレイラを想像させる。「供述」に至るまでにペレイラを襲った悲劇と、あまり明るくはないであろう彼の現在・未来が冒頭から約束されている。もやもやとした曇天のような不安に覆われながらも、どうして「供述」せざるを得なくなったのか、という謎を追いかけていくミステリー的な要素もあって、ページを繰る手が止まらなかった。このあたりは「遠い水平線」や「インド夜想曲」にも通じるところがある。

 

少しだけ希望が持てるのは、ペレイラが子供の頃の思い出や、見た夢などは「この事件には関係がない」と供述しないところ。大切にしている、宝物の記憶が、どうかそのまま、少しでも彼の心を温めていますように。

 

ペレイラは亡くなった妻の写真を鞄にしまうとき、息が苦しくないように写真を上向きにしてそっと仕舞う。この仕草の切なさが、「供述によると」の効果も相まって、胸を締め付ける。


ハッピーエンドでは決して無い小説だけれど、読後感は切なさと哀しさと、少しの欠片がきらめくような余韻があって、改めてタブッキは稀有な作家だなと思った。本当に大好きで、大切な作品になった。

 

私もいつか、リスボンで、ペレイラががぶ飲みしていたレモネードを飲んでみたい。オムレツも2個くらい食べちゃおう。そしてペレイラが愛した文学に、正義に、思いを馳せたりしてみたい。

 

 

 

『フェルディドゥルケ』W.ゴンブローヴィッチ

 

ひとことで言うと、変な小説。
ただ、「変」とは言っても、芸術への情熱に裏打ちされた「変」さに、私は惹きつけられる。
そんな小説だった。

 

あらすじは、こんな感じ。
30歳非モテ青年がいきなり男子校にぶち込まれ、そこで起こるなんともバカバカしい諍い(「顔つきくらべ」???)に巻き込まれつつ、これまたいきなり連れて行かれた下宿先のギャルにひと目惚れして彼女を覗き見しつつ妄想大爆発、かと思えば作者の小説論が挟み込まれ、S極N極のような教授2人の決闘、果てはBLからの田舎のお嬢さんとの駆け落ち・・・。


これを奇書と呼ばずになんと呼ぼうか、と感じてしまう、間違いなくぶっ飛び系の作品。なのに、飽きずにぐんぐん読んでしまう。ただ小説で無茶苦茶をやっているだけではなくて、シンメトリーになった構成や言葉のリズム、緩急の付け方、読者を食ったようなラスト・・・と作者の力量がきちんと根底にあるのがわかる。

 

また、訳文がとにかくすごい。こんなにバカバカしいのに、品性を保ちつつ格調高い文章で滔々と語りだすかと思えば「おちり!おちり!ふくらはぎ!」の連呼。勢いよく転がって展開する勢いのあるふざけ倒した文章と、自嘲を交えた「永遠の青二才」(≒厨二病)特有のわざとらしい美辞麗句、冷静に俯瞰する批評のバランスを、よく日本語に落とし込んだなと。訳は米川和夫さん。偉業です。

 

この作品はただ単にバカ小説(褒め言葉)として読んでも、ゴロンゴロンと転がってゆくボールを追いかけるような楽しみがあってやめられない。その楽しみ方に加えて、付録(スペイン語版が出版されたときの序文や、雑誌への寄稿文)を読むとよく分かるのだが、作者のいわゆる古典的、芸術と称されてきた形式へのアンチテーゼ、真摯な反逆行為という側面もある。
※本編内でも作者の意図については2章に渡って触れられているのだが、私には小難しくてよくわからなかった。

 

ゴンブローヴィッチはデビュー作を未熟と評されたことを逆手に取って、この作品を書いたらしいが、おちり小説(?)をこの精度で書き上げてしまうのはすごい。熱狂的なファンがいるのもよく分かる。

 

 

未熟は、いいかえるなら、若さ、低さ、愚かさということにもなり、むろん、成熟、不惑、賢さと対立する観念だ。完成にたいする未完成、調和にたいする混沌が未熟である。もとより、人は高さを、完成した形式をもとめてやまぬものだが、と同時に、それに反撥し、正反対の方向にひかれるもの。なぜなら、完成は死を意味し、未完成はそのうちに無限の可能性をはらんでいるからである。未熟さは、力だ。
(「世界の文学」版訳者解説 P.499)

 

未成熟・未完成なものは、いうほどマイナスなものではない。未完成ゆえの、無限の広がりは、あるのではないだろうか。

 

少し話がそれるが、つい最近、「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観た。

※記事の公開日時が2/13となっており、この時期に劇場版は公開されていないのですが、この本を読み終わった日付なので、ご了承ください。

20年以上も続いた、少年の未成熟さ、大人の幼稚さをめぐる宇宙規模のカオスな戦いに終止符が打たれたのだ。作品が完成したこと、ある着地点を庵野監督をはじめとするエヴァンゲリオン制作陣が見出したこと、それはいちファンとして、とても喜ばしくもあり、また、ひどく寂しくもあった。ミサトさんは作中、「すべてのカオスにケリをつける」と言っていたが、それはつまり未成熟(=混沌)を脱し、大人になる(なってしまう)ことだ。永遠に同じところをぐるぐる回っていると思っていたエヴァは、その未完成さでも私達を楽しませてくれていたんだと、終わってやっと気づいた。混沌から出られてよかったと、心から思う。でも、出口が分からず右往左往する楽しみも、あったのだ。もちろんそれは、苦痛も伴うが。

 

ゴンブローヴィッチがフェルディドゥルケファン、すなわちフェルディドゥルキストへ向けた手紙が巻末に収録されている。そこには、芸術を志す人々、芸術を愛す人々への、ゴンブローヴィッチらしいエールが書かれている。

 

 

フェルディドゥルキズムとは創造意欲のことにほかならないのです。芸術は「創造」すべきものだと要求してみせてこそ、フェルディドゥルキストです。ですから、くれぐれも希望を失わないでいただきたい。
(フェルディドゥルキストへの手紙 p.520)

 

フェルディドゥルケは最後の最後で、「読んだやつ、バーカ!」みたいなことを言ってくるのだが、これは半分くらい、ゴンブローヴィッチの照れ隠しだと私は思う。だってこんなに熱いエールを書くような人が、フェルディドゥルケを楽しんだ人たちを反故にするわけないのだから。

 

 

「とても気に入った」だの、「魅かれるものがあった」だの、それが真摯で率直な感想であればあるほど、そんなことばを聞かされる者も、口にする者も、揃って赤面するハメになる。だから口をつぐんでいて欲しい。お願いだ。口をつぐんだまま、よりより未来に夢を託して欲しい。とりあえず、もし気に入ったことをぼくに伝えたいなら、ぼくを見掛けた際でかまわないから、ご自分の右耳を触ってくださるだけでいい。
(フェルディドゥルキストへの手紙 p.515)

 

謙虚かよ。ごめんねゴンブローヴィッチ。たくさん書いちゃった。


ラストの一文にはきっと、「だよね!でも書いたやつもバーカ!」と右耳を触りながら返して、一緒に笑うのがいいのかもしれない。

 

 

 

『カッコウが鳴くあの一瞬』残雪

 

大好きな残雪の短編集。残雪は『黄泥街』でめちゃくちゃにされてからずっと大好きで追っている作家の一人。『黄泥街』はずっと絶版だったのだけれど、白水Uブックスから復刊されたので残雪読んだこと無いよーって人は是非ここから入ってほしい。糞と垢を灰で捏ねて固めた棒でボコボコに殴られたあとに忽然と現れる美しい光景をその目で確かめてほしい。すんごいから。まじで。ラストを読んだときの衝撃をいまでも鮮明に覚えている。電車の中でつり革につかまりながらハードカバーを片手で支えていて、ラストの一文を読んだとき、うわーうわーうわー!なんだこれ!なんだこれは!と声に出さずに絶叫し、動揺して用もないのにキョロキョロとあたりを見回したりして、ふと目を上げると窓から差し込む光が眩しく線路沿いの住宅街を照らしていたのだった。

 

あんまり好きすぎると逆にこわくなって積んでしまったり、遠ざけてしまったりするので残雪も『黄泥街』以来、買ってはいたものの積んでいて読んでいないものばかりだったのだけれど、5月は外出自粛やらで時間もあったのでようやく手に取れた。

 

黄泥街ほどではないが、やっぱりこの短編集も臭い。しょっぱなからニンニク臭くて笑ってしまった。全体的に異臭がするし、色合いも澄んで美しい、というわけではない。よく言えばくすんでいる、悪く言えば薄汚れている。ただ、時折その薄汚さの中に、突然ぱっと鮮やかな輝きを放つ花が咲く瞬間があったり、ふと風にのって芳香が漂ってきたりするのだ。

 

残雪の小説は悪夢のようだ、とおそらく多くの人が評するのだろう。たしかにそうだ。人々の話はずっと噛み合わないし、場面の移り変わりに脈絡もあまりないように思える。意味合いを求めても意味がないというか。

 

わたしはあんまり夢々している小説は好きではなくて、というのは以前も書いたのだけれど、夢を免罪符のようにして使うものがなんとなく、いやらしく思えてしまう。「○○という夢を見た」と言われても、その時点で現実と区別されている気がして「だから何」となってしまうのだ。夢と現実は結局のところ、地続きであると思っているのでその境界線の区切り方/区切らなさが好みでないと、「あーはいはい夢乙w」となってしまう。めんどくさい好みだな。そもそも人が見た夢の話というものが好きではないのだ。

 

でも残雪の小説は、居心地が良い。焦点が合わなくても、秩序がなくても、引っかかり無く読めてしまう。気持ち悪い描写も、どんなに臭くても、居心地が悪いのに、居心地が良くて、ずっとこの言葉の波にたゆたっていたいなと思ってしまう。意味を、文脈の上を滑るような読み心地。それは残雪により綿密に織られたなめらかな言葉だから、というのもあるだろう。

 

この居心地の悪さ(良さ)を、カチッと言語化してくれているのが巻末に収録されている訳者、近藤直子先生の残雪評である。

 

 

 夢を夢にしている当のものーー夢に現れるあれやこれやではなく、あれやこれやの現れ方、あれやこれやをあのように現れ出させる場ーー夢の場。残雪の小説がわたしたちに思い出させるのはそれである。そこに書かれたあれやこれやが夢に似ているのではなく、あれやこれやの現れ方が、彼女の小説の場自体が、夢の場に似ているのである。
「残雪ー夜の語り手」p.169

 

残雪の描く表象の立ち現れ方そのものが夢の現れ方と似ている、というところでハッとした。小説の中でこれは夢です、と語っていてもいなくても(『黄泥街』では、その街の物語が夢であったと記されている)はいそれで終わり、ではない。果たして誰が見た夢なのか、本当にそれは夢なのか、定かではない書き方をしている。だから居心地が悪いし、こわくもある。
他人の夢に興味をそそられず、むしろ嫌いな方なのに、残雪の小説は大好きなのは、それが「他者の夢とは限らない」感覚に陥るからかもしれない。立ち現れ方が巧妙なせいで、読み終わったとき、ちゃんと(?)自分が「よくわからない夢を見ていた、午睡から目覚めた」のような感覚になる。
だから何度でも読みたくなるのかもしれない。

 

 

人は夢を見ながら夢を解かない。夢がわからなくなるのは目覚めたあとである。
「残雪ー夜の語り手」p.193

 

 

カッコウが鳴くあの一瞬 (白水Uブックス)

カッコウが鳴くあの一瞬 (白水Uブックス)

  • 作者:残雪
  • 発売日: 2019/05/11
  • メディア: 新書
 

 

ちなみに、白水Uブックスから復刊された『黄泥街』にも、近藤直子先生の絶版本『残雪ー夜の語り手』からの黄泥街評が収録されているので白水Uブックス版をお持ちでない方は絶対に買ってください。

 

黄泥街 (白水Uブックス)

黄泥街 (白水Uブックス)

  • 作者:残雪
  • 発売日: 2018/10/12
  • メディア: 新書
 

 

『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー

[ドストエフスキー, 原 卓也]のカラマーゾフの兄弟(上)(新潮文庫)[ドストエフスキー, 原 卓也]のカラマーゾフの兄弟(中)(新潮文庫)[ドストエフスキー, 原 卓也]のカラマーゾフの兄弟(下)(新潮文庫)

 

 

いや〜読み終わってしまった。中高生の頃に一度チャレンジして挫折して、大学生の頃に再度チャレンジして挫折して、社会人になってから再々度チャレンジして挫折して、今回ようやく3巻読み終えて感無量。ちなみに挫折箇所は毎回同じ、序盤も序盤、家族会議を修道院で行っている最中のフョードルの長広舌のところ。「いい加減あんたうるさいよ」と思って閉じていた。勿体ないことをしていたものだ。
先に結論から言うと、本当に読んでよかった。きっとこの先、積読が万が一なくなっても(死ぬか家が燃えるか焚書の刑にあうかくらいしないと無くならないが)この3冊があれば大丈夫。何度でも面白いだろうし、再読のたびに新しい発見ができるだろう。そういう確信が持てる本は、良い本。わたしは知っている。

 

で、わたしの言いたいことは上に貼ったツイートに全部集約されているので正直あまり書くことはないというか、この本について詳しく書き始めると人生まるごとエントリーになってしまうのでやめておく。それくらい、全部盛りだった。『天冥の標』がSF小説の醍醐味全部盛りなら、『カラマーゾフの兄弟』は純文学の醍醐味全部盛り。キャラ萌えするもよし、イワンVSアリョーシャの宗教観バトルを楽しむもよし、イワン渾身の一大叙事詩「大審問官」をとことん追求するもよし、BLも百合もなんでもある、この本に関しては解釈違いがどうこうなんて無粋なことはやめて、好きなように読んだら良いのだ。

 

ちなみにわたしの推しはイワン、そしてグルーシェニカ×カーチャのCP、というかもう全員好き、箱推しである。最初はアリョーシャ一択でしょ(基本、見た目貧弱なのに実は頑固なところもある美少年が好き)と思っていたのに、読み進めていくと「大審問官」のくだりでイワンの苦悩に歪む顔にベタぼれしてしまい、グルーシェニカ×カーチャの殴り合い(隠喩)の場面では彼女たちが踏みしめる床になって二人を拝んでいた。エピローグではこの二人の最高なシーンが観られるので本当に長いけど報われたというかドストエフスキーこんなとこで伏線回収しやがってこのやろう愛してる!となってしまった。ここまで息継ぎせず書いてますが、いやほんと作画も神なんですよ。絵、ないけど。


なんだかんだで読み終わったらなんだか全員が愛おしくて、全員を抱きしめたい気持ち。ときどきひょこっと顔を出す作者・ドストエフスキー含めて全員、大好きだ。「もういいから、ちょっと作者は引っ込んでてw」となったりもしたが、そういう、作者が並走してくる小説は、実は結構好きだったりする(例:ローラン・ビネ『HHhH』)。
登場人物は癖のある人間ばかりで、ロクでもない輩もいるけれど、生粋の悪人はこの小説には出てこない。女遊びしまくって子供もほったらかし、ケチで自己弁護にだけは長けてる嫌な親父だなと思っていたフョードルも、なかなかどうして、その自嘲やうるさい道化の喋りには共感できるとこともあったり。共感性羞恥が働いて目をそらしたくなるような彼の振る舞いは、他人事とは思えない。わたしも自分を守るためにめっちゃ喋るので。

 

この本を読み始めたのは2020年1月半ばで、その頃はまだCOVID-19もなんとなく他人事でマスクせずに出勤、満員電車に揺られながら読んでいた。「そもそも今更マスクしたところで意味なくない?」なんてのんきに同僚と話していた。4月に読み終わった頃にはもう、通勤電車は1シートに3人くらいの割合になり、WEB会議が普通になり、家の近所にしか買い物には出なくなった。マスクはもはや社会的記号となっている。毎日まるで小説のように最悪を更新し続ける政府と、それに振り回されて摩耗していく精神と、適切な距離を保たないと身が持たないSNS

 

 

現在われわれは、慄然とするか、あるいは慄然としたふりをして、その実むしろ反対に、われわれの冷笑的で怠惰な無為を揺さぶってくれる強烈な異常な感覚の愛好者として、この見世物を楽しんでいるか、さもなければ、幼い子供のように、この恐ろしい幻影を両手で払いのけ、恐ろしい幻影が消え去るまで枕に顔を埋め、そのあとすぐ愉悦と極楽の中でそれを忘れ去るつもりでいるか、なのであります。だが、やがていずれは、われわれもまじめに慎重に生活をはじめなければならないのです。われわれも社会としての自己に目を向けなければなりません。われわれとて社会問題にせめて何らかの理解を持つか、でなければせめて理解を持とうとしはじめねばならないのです。(下巻 p.464)

 

世界が混乱し、感染は他人事ではなくなり、他者との接触が制限され、先の見えない不安でいますぐ死んでしまいたくもなるけれど、その渦中にこの本が読めていたことは、幸せだった。わたしがなんとか正気を保てたのもこの本のおかげかもしれない。本当に楽しくて、最高の読書体験だった。

 

折を見て、何度でも再読したいし、ドストエフスキー全部読みの機運の高まりを感じるので、次は『罪と罰』に行こうと思っている。待ってろよラスコーリニコフ・・・!

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 
カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈中〉 (新潮文庫)

 
カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

カラマーゾフの兄弟〈下〉 (新潮文庫)

 

 

『見知らぬ乗客』パトリシア・ハイスミス

[パトリシア・ハイスミス, 白石朗]の見知らぬ乗客 (河出文庫)

 

同性間の巨大感情が大好きなみなさん。
「共犯者もの」、お好きですよね?
わたしはこう聞かれたら首もげるくらいヘドバンする。あの娘ぼくがもげた首でロングシュート決めたらどんな顔するだろう。ってくらい好き。伝わる?

 

 

おまえが言ったんだぞ 。共犯者って 、この世で最も親密な関係だって 。

 

・・・と思わず裏世界ピクニックの名台詞から引用してしまうくらい、この作品は真っ向から男性同士の共犯関係を親密に描いている。ハイスミスといえば、映画にもなった『キャロル』『太陽がいっぱい』で有名だけれど、本書がデビュー作。出た〜〜デビュー作がモンスター級の作家〜〜〜〜(山尾悠子、ピンチョン、残雪etc…)と雄叫びを上げてしまうくらい、こちらも本当に良かった。

 

物語は、建築家のガイと風来坊のアル中富豪ブルーノが偶然列車で知り合うところから始まる。乗り合わせてきたほろ酔いのブルーノの顔をガイがしげしげを観察する場面があるのだが、ここでガイはブルーノの顔を「おもしろい顔」とか言ってるので、この時点で聡明な読者の方はお気づきになるであろう。ふと近づいた相手に見とれてしまう、「きれいな顔・・・」「まつげ長・・・」というお決まりのアレである。要するに物語の初っ端からこの二人がどうしたって離れられない関係に陥ることが明言されている(満面の笑みで断言)。

 

そして、ブルーノは「ぼくの考えたさいきょうのさつじんけいかく」こと交換殺人をガイに持ちかける。お互いよろしく思っていない相手をそれぞれ殺そうというもの。ブルーノはガイの元妻を、ガイはブルーノの父親をそれぞれ殺し、二人の関係性がバレなければ完全殺人、というわけ。

 

ガイは全然その気ではなかったのに、猪突猛進でアル中ゆえ若干頭のネジが外れているブルーノが先にガイの元妻を殺してしまい、動転したガイが右往左往しながらブルーノの計画に否応なしに巻き込まれてゆく。

 

ブルーノがどんなにめちゃくちゃやっても(常に飲んだくれ、勝手にガイの主催するパーティに登場して場を台無しにする、ガイを執拗にストーキング、などなど)ハイスミスならでは、という感じの、ブルーノの情熱と、緊迫した呼吸が繊細な筆致で描かれていて何故か下品な印象にならない。


対してガイは生真面目で現在の妻を真摯に愛し、平穏な日常を望んでいるのに悉くブルーノに邪魔をされてしまう。ガイはそんなブルーノを憎みながらも、自身も殺人者とならなくてはならないという切迫感で頭がいっぱいになってゆき、しまいには「俺はお前が好き」となってしまう物語の中盤、ここの描写は本当に白眉。


最初読んだときは「ジェットコースター理論」やんけと思って爆笑してしまったのだが、いやいやどうして、わたしもこの状況におかれて相手から好き好き言われたら「わけわからん、お前なんかはやくこの世から消えてくれ(愛してる)」となるかもしれん。押しに弱いので(そういう問題か?)。

 

破天荒で暴君、嵐の如き愛情で相手も自分もぐちゃぐちゃにしてしまうブルーノと、冷静沈着、頭脳明晰、寡黙で穏やかなガイ、と対象的な二人が徐々に共犯関係となっていく様子はハラハラしながら(ニヤニヤしながら)固唾を呑んで見守ってしまう。

 

ラストは悲劇的ではあるけれど、その物悲しい余韻が心地良くて。これは他のハイスミス作品でも感じることで、主人公がドクズ(『太陽がいっぱい』からのリプリーシリーズ)で途中どんなにハチャメチャな展開になっても、どんなにひどい結末になっても、どこか静謐で清浄な空気が漂っているんだよね。これほんと不思議。

 

今回も、ハイスミスは本当に、オタク心理を絶妙に突いてくるな〜〜〜くっそ〜〜〜好き!!!!となった読書体験だった。

オタクではないと豪語しているあなたにこそ読んでほしい。そもそもオタクってなんだ。

 

BLとか百合とかのジャンルにとらわれず、堅牢で美しい舞台設定の上で人間同士の感情のぶつかり合いを描く作品、が嫌いな方はあまりいないと思うので、ぜひ。

 

そして沼にはまったら、上記のリプリーシリーズをどうぞ。こちらも大傑作。もちろん『キャロル』も忘れずにね。

 

見知らぬ乗客 (河出文庫)

見知らぬ乗客 (河出文庫)

 

 

太陽がいっぱい (河出文庫)

太陽がいっぱい (河出文庫)

 

 

キャロル (河出文庫)

キャロル (河出文庫)

 

※ちなみに『見知らぬ乗客』は長らく積んでいたところ、ツイッターかかり真魚さんが絶賛していたのでそれならばと手にとった次第。かかりさんありがとう〜!ラブ!